「インパール作戦」、火野葦平が克明に記録 現地の暮らしも

2018/01/24(水) 23:29:57.29
「インパール

インパール作戦中の火野葦平(玉井史太郎さん提供)
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180121001646_comm.jpg
出版された「インパール作戦従軍記」を手に父の火野葦平について語る玉井史太郎さん=北九州市若松区の「河伯洞」
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 「麦と兵隊」「花と龍」などの小説で知られる作家火野葦平(あしへい)(1906〜60)が残した「インパール作戦従軍記」が出版された。原本は1944年、陸軍報道班員としてつづった「従軍手帖(てちょう)」。兵隊の側から克明に戦場を記録した作家の観察眼は、多くの犠牲者を出して大敗した旧日本軍の無謀さを浮かび上がらせる。火野が亡くなって24日で58年となる。

 火野は現在の北九州市若松区出身。本名は玉井勝則。召集されて中国にいた38年、「糞尿譚(ふんにょうたん)」で芥川賞を受けたのを機に陸軍報道部に転じた。

 多くの作戦に従軍し、その様子を手帖に書き続けた。戦場の実態や兵隊の様子に加え、現地の暮らしや自然などにも着目。日誌やメモ風の記述を細かな字で絵も交えて詳細に記した。20冊を超える手帖は現在、遺族が北九州市立文学館に寄託。このうち、インパール作戦は6冊に及ぶ。

 インパール作戦は、連合国軍の補給路を遮断しようと、インド北東部インパールの攻略をめざし、44年3月に開始された。だが、補給を軽視し、食糧や物資が欠乏。3万人以上が犠牲になったとされる。

 火野は44年4月に日本を発つまで、日本側の優勢を信じていた。

 ところが現地入りすると、出会った人々から「想像以上の苦戦」と聞かされる。爆撃に遭い、「こちらの飛行機や高射砲はどこにもない」と装備の不足を目の当たりにする。「一つの山を越えると次の山」「断崖は深く」という行程をたどり、「補給路としての路がこんなであることは想像のほかであつた」と記す。

 前線が近づくと、「点々と焼け…

残り:501文字/全文:1154文字

朝日新聞デジタル 2018年1月22日07時08分
https://www.asahi.com/articles/ASL1L5WMHL1LTIPE02S.html

98名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:30:00.72
佐藤がどうこうって、佐藤に行かせたのは牟田口なんだから全く言い訳になって無いんだが
そういう事にすら気づかないってのが、牟田口の弁明を聴いてて哀れなんだよね。
失笑するしかないという。
99名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:31:31.48
牟田口って死ぬまでクズだったな
100名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:32:07.23
>>93>>97
できるのにやれなかったのは無能ってことだよなあ。
101名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:32:21.24
>>73
もしもwikipediaの編集の仕方に詳しい人がこのスレを見てたら
wikipediaの「インパール作戦」の項目の「1.3 ウ号作戦」の文中の
「寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。」の文章を
「東條英機の思惑が強く働いていた。」に正しく戻しておいて欲しい

2010年1月2日に人物名だけをすり替えて改竄されたままになってる
102名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:34:38.11
そもそも1ヶ月で完了させる作戦だろ?
それを4ヶ月も延期させたら、そりゃ補給は尽きる罠。
逆に見れば、そんなに延長できたにだから15軍の
補給計画はいい加減ではなかったとさえ言える
(他の戦場はもっと酷い、というか補給計画なんか無いも同然)

であるから作戦を延長したのは南方だから
牟田口の責任じゃ無い罠。
海軍側の妨害さえなけりゃ成功していた作戦だから
103名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:37:19.98
なんで日本が非難されなきゃいけないのかわらん

普通なら一緒につれて行かないで捕虜なんか殺しちゃったほうが楽だろ。
生かせて貰えるだけ有難いと思わないのかね
104名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:39:28.71
>>5
韓国の一人当たりのGDPは2万7000ドルで日本の一人当たりのGDPは3万8000ドルでその差は3倍ではなく1.4倍な
あまりそういう嘘を書いてると「ネトウヨはこんな恥ずかしい嘘コピペをしてた!」と言いたいがための自作自演に見える
105名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:40:52.90
白骨街道で苦しんだ当事者は、悪いのは牟田口ではなく佐藤だと言ってますよ。
佐藤の師団が食料を強奪したから、後続部隊が飢餓に苦しんだと。


『二つの河の戦い―歩兵第六十聯隊の記録 ビルマ篇』
「抗命部隊」  第二大隊砲小隊 桑原真一

『6月下旬、私は師団輜重連隊の本部と行動をともにしていた。
宿営地のそばのフミネ方面に通ずる道路をガヤガヤと大勢が通る
足音に目覚め、天幕外に飛び出して驚いた。
見ると松明をかざした野盗に見まごう一団が歩いている。』

『その後、輜重連隊にも転進命令が下り、フミネに到着したが、そこには一粒の米も無かった。
耳に入ったのは6月下旬に烈の兵隊の襲撃を受け、否応無しに少ない糧秣を奪われたという情報であった。

友軍である列の徒党を組んだ襲撃の情報は信じたくなかったが、タナンに向かう撤退行軍の苦難の日々が重なるにつれて、
烈の兵隊に対する憎しみの感情が起るのは、やむを得なかった。

戦後20数年を経た今日でさえ、捨てられた弁当箱にご飯粒が
残っているのを見ると、あの山の中で、この米粒があったらと思うと同時に、「あの時の米は烈に奪われたのだ」という思いが、
頭をかすめてくるのである。』
106名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:41:44.25
>>4
座布団5枚!
107名無しさん@1周年2018/01/25(木) 02:43:52.19
>>62
兵站が全くなく死者の大半が餓死の軍隊に
何ができるのか。